これまで自分が自分として生きてきて、これからも恐らく自分として生きていくっていう偽りのない事実にはちゃんと誇りをもって良いんじゃないかと思う。
ボクは、小さいころから大人が信用できなかった。(あ、今も!)
建前ばっかで、嘘ばっかで、生きる理由とか考えてない大人たちが信用できなかった。
だから今でも、年上の人と話すときは躊躇する。
ちょっと一歩引く。
一線を置いている。
最近になって、大人でも(自分より年上でも)尊敬できる人たちに会えるようになったから、徐々にこの感覚はなくなってきてるかもしれないけど、幼少期からあるこの大人に対する不信感は、今もべっとりとこべりついている。
そんなことを考えて生きてきたから、ボクは年下の人達には嘘をつきたくないと思っているし、誠実に向き合いたいと思っているし、わからないことを曖昧なまま答えるようなことはしたくないと思ってる。
だけど、周囲の状況によっては、そういうことをしてしまう自分がいたかもしれない。
というか確実にいたと思う。
正直、これからも100%嘘をつかずに、自分をだますことなく他人と接することができるのかについて、自分に自信がない。
不安だ。
子供のころから抱いていた大人に対する不信感を、自分が再び生み出してしまうのではないかと、不安だ。
怖い。
小さいころ、これほどまでに不信感を抱く原因となった大人という存在に、自分が絶対にならないという自信を持てないことが怖い。
すごく怖い。
しかし、自信をもって良い部分はある。
それは、これまでボクはボクとして生きてきて、これからも恐らくボクとして生きていくという事実があるということである。
今までボクとして生きてきて、これからボクとして死んでいくのだ。
これだけは変わらない事実だし、誇れることだと思う。
今ボクが書いていることは、ボクが考えていることだ。
ここ最近は、随筆的、哲学的なことを書いている。
ということは、そのような思考をしているということ。
実は個人的には、もっと学術的で事実ベースの中身ある面白いことを考えていたいと思っていたりもする。
だけど、それができていないということもこれまた事実であり、自分が今はそういう状態ではないということの表れでもあると思う。
まあでも、学術的な事実ベースのことをこのブログで書いて面白いのかは疑問に思ったりもする。
わざわざそういうことここで書く必要あるかな?と思ったりもする。
そう思っている時点で、何かが違う気もする。
まあ良いさ、自分がその時考えてること、思ってることを書いていけば良い。
その方が楽しいし、楽しいし、楽しい。