ボクはきみにはなれないし、きみはボクにはなれない。
だから、もう「誰か」になろうとするのはやめよう。
自分の「I」を見つけよう。
今、ボクは大学で心理学を勉強しながらイベントやアプリ開発をしたり、企業のお手伝いをしたりしている。
バイトは塾の講師をしている。
ボクにはやりたいことがある。
それは、ボクがどんなに失敗をして落ち込んでも、悩んで眠れなくなっても、精神が病んで救急車で運ばれても、ずっと考え続けてしまうようなことなんだ。
目先の物事に感情が移ってしまっても、ボクの本質的な部分は変わらない。
だからきっと、もうそういうことなんだ。
ボクは、これを成し遂げないといけないというよりきっと成し遂げるんだろうと思う。
実際に、少しずつだけど現実もその理想へと近づいている。
でも、まだ実現していない。
故に、この旅はまだまだつづくのだろう。
今、ボクは刺激を求めている。
今の刺激量じゃ足りない、と。
しかし、昼間外に出ていれば無限に浴びられる太陽光のような刺激を求めているわけではない。
刺激の質と方向性とフィーリングが重要だ。
質とは、いかに物事の本質に近づいた活動ができるかということ。
たとえば、今ボクが「ラーメンを食べたい!」と思っているとしよう。
どうすべきか?
これに対する本質的な行動というのは、2つあると思う。
1つは、ラーメンを自分で作って食べようとすること。
もう1つは、ラーメン屋に食べに行こうとすること。
どちらかの行動を取れば、すぐにラーメンを食べることができるだろう。
このように、求めるべき結果にいち早く近づこうとすることが、より本質的なことなのだと思う。
故に、ボクが求める刺激にはこの質が重要だ。
より高い質の刺激を求めている。
次は方向性。
最初にも述べたように、ボクにはやりたいことがある。
一方で、やりたくないこともある。
この2つは正反対だ。
方向性とは、その名の通りどこへ進もうとしているのかということだ。
ラーメンで例えるならば、味噌ラーメンか、とんこつラーメンか、担々麺か、塩ラーメンか、どれが食べたいのかということだ。
ボクはラーメンはどの味も好きだが、担々麺が特に大好きだ。
しかし、担々麺が大嫌いな人もいるだろう。
辛いものが苦手な人は嫌いだと思う。
辛いものが苦手なその人に、もし、ボクの独りよがりで担々麺を食べさせたら、その人はどう感じるだろうか?
想像するだけでも恐ろしい。
自分が嫌いなことを強制的に強いられる状況。
非常に嫌悪感を感じる。
だから、方向性は重要だ。
ボクはより方向性が合う刺激を求めている。
最後はフィーリングだ。
今のところ、この社会は人によって構成されている。
故に、ありとあらゆる刺激に「誰か」が関与している。
人は生命であり、動物である。
できるだけ論理的にこの文章を書いているつもりだが、そもそもボクは「やりたいことをやりたい!」という非論理的な感情によって動かされているので、人にも非論理的な部分がある。
簡単に言うと、その刺激が「好き」か「嫌い」かである。
これは、現在の科学ではまだ証明できないことなのではないかと思う。
恐らく、DNAと波動が関係しているのだとは思う。
もちろん、ボクは、ボクが「好き」と感じる刺激を求めている。
さらに不思議なことに、人は非論理的な生き物なので、「好き」と感じたら最初に述べた「質」と「方向性」が合致していなくてもその刺激を受け入れてしまうことがある。
だから、フィーリングはとても重要だ。
逆に言えば、「質」と「方向性」が合致していても「嫌い」であったらその刺激が受け入れられなくなってしまうこともある。
これは極めて稀だが。
故に、フィーリングの合う刺激を求めている。
ボクは、上記の3つの条件に当てはまる刺激を求めている。
読んでいてお分かりいただけたと思うが、もしこの条件に当てはまる刺激に今すぐ出会えたとしたら、それは非常に幸運なことだろう。
恐らく、今このブログを家で書いている最中に突然「ピンポーン」とインターホンが鳴って、「やあ、きみに会いに来たよ」と刺激が訪れてくることはないだろう。
恐らく、YouTubeを見たり誰かの本を読んだりこのブログを書いたりしたってその刺激はやってこない。
そう。
答えは自分が知っている。
刺激を手に入れるためには、自分で刺激を取りにいかなければいけないのだと。
ボクはきみにはなれないし、きみはボクにはなれない。
だから、もう「誰か」になろうとするのはやめよう。
自分の「I」を見つけよう。