にしログ

大西健太の雑記ブログ。

<雑記>レオナルド・ダ・ヴィンチはセンスが良いの?じゃあ、センスって何?

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今日は「ハッカーと画家」という本を読んでいて面白いなと思ったことを書いていこうと思う。

 

現代では、センスは主観的なものであり、単なる個人の好みであると思われている。

 

しかし一方で、レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画がある美術館に行ったら、彼は偉大な芸術家だから、注意してしっかり見ておこうと誰もが考える。

 

これは、明らかに矛盾している。

 

レオナルド・ダ・ヴィンチは、果たしてセンスが良いから偉大な芸術家なのだろうか。

 

ボクたちは小さな頃から、やり方は人それぞれだから、みんな違ってみんな良い的な考え方を教わってきたはずだ。

 

この教えは間違っているのだろうか。

 

おそらく、どちらが間違っていて、どちらが正しいとは言えないのではないかと思う。

 

みんな違ってみんな良いと教えるのは自由だ。

 

教える場合は、教える側の個人の考えを反映することができる。

 

何と比べて自由かと言うと、現実の社会システムと比べたら自由だという意味だ。

 

 現実の社会システムでは、みんな違ってみんな良い的な考えでは生きていけない。(厳密に言うと、日本なら生活保護を活用すれば生きていけるが、多くの人はそんなことはしない)

 

サッカー好きのサラリーマンが、ある時サッカー選手になりたいと思って突然仕事を辞めて、次の日から公園でボールを夢中になって蹴りはじめても、仕事で稼いでいた分のお金を手に入れることはできない。

 

よって、生きていくことはできない。

 

こんなことは当たり前の話だ。

 

だから、現実の社会システム上では、みんな違ってみんな良い的な考えでは生きていけない。

 

生きるためにはお金を稼がなければならず、そのお金は他人の需要に応えることができた場合にのみ獲得することができる。

 

ゆえに、サラリーマンであれば、その会社の企業の需要に応えることでお金を獲得することができるが、サッカー選手であれば、サッカークラブの需要(サッカー選手に求める一定の技能・スキル)に応えなければお金を獲得することはできない。

 

もちろん、サッカークラブが求める能力・スキルを、サッカー選手になりたいと望んでいる全員が供給できるはずがない。

 

競争によって淘汰されていく。

 

よって、現実の社会システム上では、みんな違ってみんな良い的な考えでは生きていけない。

 

そう。

 

残念だが、現実の社会システム上ではそんな甘い考えでは生きていくことはできないのだ。

 

ゆえに、みんな違ってみんな良い的な考えは、教える側の個人による、自由な考え方の1つに過ぎないのだ。

 

しかし、ボクはあえて「現実の社会システム」という言葉を使っている。

 

それは、あくまでも「現実の社会システム」では無理だからだ。

 

ゆえに、現実の社会システムを変えることさえできれば、みんな違ってみんな良い的な考えで生きていくことができる世界になるとボクは考えている。

 

ボクはそんな世界のことを、「みんながやりたいことやれる世界」と呼んでいる。

 

そんな世界を作るためにはどうすれば良いのかと割と真剣に考えているし、そのために今やっていることも色々とある。

 

いずれは、みんな違ってみんな良い的な考えが現実の社会システム上でも正しく反映される世界になることを、みんなは望んでいるのだと思う。

 

少なくとも、ボクは望んでいる。

 

今は間違っているけれど、いつかは当たり前のように、その考えは正しいと言える日が来ることを願っている。